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  包丁の話  
包丁の歴史
包丁の原型
包丁は最初、動物の牙あるいは丈夫な歯のかわりとして生まれ素材は石、青銅、鉄から銅、セラミック、超合金へと進化してゆきます。
包丁の原型
原始時代、人類の祖先は先を尖らせた石の矢じりで、獣を仕留めていました。
その皮をはがしたり、硬い木の実を砕くのに一方のへりを薄くそぎ、残りのへりを握りやすいふくらみにした石器や、 石斧が、包丁の原型といえます。
今のところ人類が使った最古の石器とされるものは、1960年にアフリカのタンザニアで発見された180万年前の打製石器で、人類の祖先である彼らは、発見者のリーキ博士からホモ・ハビリス(道具を使う人)と名づけられました。
人と他の動物との区別は利器(手で使う道具)を作りまた使用することにあります。
素材も石から金属へと変わっていきます。金属を作るには火をコントロールすることが必要です。 人類が火を使えるようになったのは約4万年前だといわれています。 銅の溶解温度は約1200℃でやや低く、約5000年前から使われ始めました。鉄の溶解温度は1500℃で約3000年前から鉄製品として使われるようになりました。しかし、一般の人々がある程度自由に鉄素材を利用できるようになったのは、ほんの600年位前からです。
日本神話よりやまたのおろち伝説
製鉄技術が国の存亡の大きな鍵となります。 日本書紀には古代の製鉄集団の存在と、国の統一における鉄と武器のはたらきを暗示している箇所があります。
やまたのおろち伝説
高天原を追放されたスサノオノミコトが,出雲(島根県)の斐伊川のほとりに たどり着きなすすべもなく佇んでおりますと、川上から一本の箸が流れてきました。
箸があるなら人が住んでいるに違いないと川をさかのぼるとそこに、老夫婦と娘がさめざめと 泣き伏しておりました。
訳を聞きますと「私たちには八人の娘がおりましたが、毎年ひとりずつ八つの頭をもつ大蛇に人身御供を差し出してきました。そうしなければ大きな災いをもたらすのです。 それでとうとう最後の娘となり悲しくて泣いているのです。」と申します。
それを聞いたスサノオノミコトは、八つの壷に酒を満たして大蛇の来るのを待ちました。やがて八つの頭と八つの尾を持つ大蛇が現れ壷に頭を入れて酒を飲み始めました。
潜んでいたスサノオノミコトは十拳剣(とつかのつるぎ)で次々と大蛇の首を切り落としていき、その流れた血は、斐伊川を真っ赤に染めたと申します。
そしてその尾を切ったとき硬いものが刃にあたり さすがの十拳剣の刃も欠けてしまいました。 不思議に思い尾を切り裂くと中から見事な剣が現れました。その剣を天照大神に献上し草薙の剣とよばれています。今日に三種の神器とは、皇位の御しるしとしての八尺瓊勾玉・八咫鏡・草薙剣をいいます。
鉄砲伝来と堺
堺鉄工集団の技術力と生産力が鉄砲製造から煙草包丁へと受け継がれ、世界に誇る和包丁の誕生となりました.。
鉄砲
15世紀
天文12年(1543年)8月一艘の中国船が暴風雨で種子島に漂着しました。
乗船していたポルトガル人は島の領主、種子島時尭(たねがしまときたか) に鉄砲の試し撃ちを見せました。
時尭は鉄砲の威力に驚いて早速2丁の鉄砲を買い入れました。 これが鉄砲伝来です。(一説には、ヨーロッパで過剰にあった鉄砲を日本で売りさばこうとしたともいわれます。)
時尭は家来に火薬の作り方を学ばせ、また数名の鉄工職人に鉄砲つくりを命じましたが、 銃身ができても、底をふさぐネジの工法がわかりませんでした。
しかし翌年きた外国船に鉄工がいて、ネジの作り方を学びました。
その翌年にははやくも、数十丁の鉄砲が日本人の手によって完成しました。
その後、堺の商人橘屋又三郎が種子島で技術を習得し、堺に帰りその技術を広めました。
そして、いち早く鉄砲の持つ力に気づいた織田信長は、近江や堺の大鉄砲産地を勢力下に組み入れ2000丁の鉄砲を保持しました。
この数字は当時の世界一の保有量であり鉄砲伝来後わずか30年後のことです。 まさに堺鉄工集団の技術力と生産能力の凄さをあらわしています。1575年の長篠の戦いでは武田勝頼の日本最強といわれた騎馬集団を打ち破り、天下統一の礎を築きました。
その意味で鉄砲は、戦国時代を終わらせる一助になったと言えるかもしれません。
たばこ包丁
16世紀
ポルトガルよりタバコが伝わり、国内でタバコ栽培が行われるようになると、 この葉を刻む「タバコ包丁」が大量に必要となりました。
輸入の包丁より堺の包丁が優れていたために、江戸幕府はこれに「堺極」(さかいきわめ) の極印を押して専売品としました。(優れた鉄砲、刀鍛冶が全国に散らばり、幕藩体制を脅かすのを防ぐ意味があったと言う見方があります。)
ここで堺の包丁は「タバコ包丁」をもって、産業としての基礎を確立していったのです。 闘って剣が折れると、あるいは鉄砲は砲身が爆発すると、それはいずれもただちに、 死を意味します。故に鉄の精製と加工は、最高の技術が要求されました。
そしてその技術力を生かしたものが、権力をにぎり日本を治めました。
17世紀
終りから18世紀初頭にかけてのいわゆる元禄文化のなか、 出刃包丁、薄刃包丁など用途に合わせた多様な包丁が出揃いました。
明治9年に廃刀令が発令されると、その伝統技術は世界に誇る和包丁に、さらに活かされることとなりました。
そして、昭和57年「堺打刃物」が「伝統工芸品」に指定され今日に至っています。また、岐阜県関市では、約700年前から日本刀の名匠があらわれ、中でも孫六兼元(1433) が有名ですが、やはり江戸中期以降は、包丁、鋤、鍬が主流となりました。
あと高知県の土佐刃物、福井県の鯖江や武生、新潟県の三条、兵庫県の三木があり、海外では、ドイツのゾーリンゲンが刃物産地として世界的に有名です。
そして現代においてわが国は最高級の包丁鋼の生産国であり輸出国です。あとはスウェーデン、オーストリア、イギリス、ドイツですが、包丁鋼の種類の多さや、ステン合金鋼、粉末鋼は日本が圧倒しています。そしてまたなによりも、日本料理には包丁の切れのよさは不可欠です。
これらの要素がかさなり堺の高級包丁を産みだしました。
包丁の語源
包丁は料理人を意味していました。庖丁が用いた刃物が包丁です。
荘子
今から2300年から2400年前、紀元前4世紀後半インドで釈迦が仏教をひらき、ギリシャではソクラテス、プラトン、アリストテレスら哲学者たちがあらわれ、不思議なことに世界的な規模で人類の叡智がほぼ同じころ一斉に花咲きました。
中国は多くの国にわかれていて、お互いが入り乱れて争う戦国時代でした。しかしやはり、思想の黄金時代でもあり諸子百家と称される思想家を輩出しました。
孔子、墨子、老子、韓非子、荘子は、今なお東洋人の思想の源流となっています。
孔子の説いた仁や徳など人間の厳格な精神性を重んじた儒教に対し、なにものにも とらわれない自由な生き方を説く荘子。その荘子の養生主篇のなかに庖丁という言葉があります。

包丁の語源 善哉…善きかな

吾聞庖丁之言…吾庖丁の言を聞きて

得養生焉…養生を得たり

むかし、庖丁という名の料理人が魏(後に梁)の恵王(文恵君 BC.371)のまえで、1頭の牛を料理して見せました。
その鮮やかな包丁さばきで、優雅な踊りを舞うように、みるみるうちに肉が骨から切り離されていきます。
恵王がその華麗な技をほめると、庖丁は
「私は19年も同じ牛刀を使いつづけても、今砥石に当てたばかりのように輝いている、それは牛の皮と肉、肉と骨の隙間に巧みに刃を滑らせるだけで、無理なく自然の摂理にそって牛を解体するのです。」
と答えました。それをきいた文恵君は、
「善いことを聞いた、養生(正しい生き方)を会得した」
と喜んだそうです。
つまり生きていく上で、無理をせず理にかなった正しい行いをしていけば、困難や苦労も案外スムーズに乗り切れるという事です。この話から料理名人、庖丁の名が後世に伝わり包丁という言葉ができました。

このように包丁は元々料理人を意味していました。
包は庖がもとで厨房(台所)を意味し、丁は馬丁や園丁のように従事する人のことです。
ですから庖丁(料理人)が用いた刃物が包丁というのが正しいといえます。
但し和漢三才図絵(江戸時代の百科事典、104巻1712年)に、包丁は料理人で割刀のことではないと、わざわざ断っている位、その取り違いも日本ではすでに定着しているといってもいいでしょう。包丁が足りないといって、料理人が少ないとうけとる人はいないでしょうから。

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